(財)国際調和クラブ
■ 歴史
受章記録
財団の前身
  • 昭和7年(1932年)財団法人日伊文化協会を設立。
  • 昭和21年(1946年)日伊文化協会から財団法人国際調和クラブに名称を変更。

このとき認可を与えた文部大臣は、哲学者であり作家の安部能成であった。

新設の財団法人国際調和クラブ
総裁:岩倉具栄(明治の元勲岩倉具視の嫡孫)
初代理事長:上田康照(京都の著名な薬問屋)

昭和40年頃までは、国際文化会館の設置、運営、芸術文化に関する事業を実施していたが、上田家も時代の流れと共に衰退し、康照の子廣吉の頃には財団の運営も困難となってくる。

第二代理事長:吉田清重(吉田興業社長)

上田家から財団を引き継ぐことになった吉田清重は、鹿児島藩士の家柄で、貴族院議員として活躍した吉田清風の子である。また、幕末に英国に留学し、後に大蔵小丞、大蔵小輔、駐米公使などを歴任した吉田清成を祖父に持つ。

清重は吉田興業社長として、イタリー亭(銀座、六本木)、シャドネーフランス亭(六本木)、ローズガーデン(浜松町)などを経営し、財団を財政的に支援してきた。しかし主だった事業がなく、文部省から「休眠財団」の指摘を受け、認定取り消しの危機に陥る。

そこで清重は、父清風のときから親交のあった植松基次と出会い、事業運営について相談した結果、すでに基次が行っていた芸術文化事業を財団の事業として行っていくこととし、事業を再会する。

その後、外国人留学生の寮を真鍋陽祐から借り受け、留学生支援事業も行い、上記の事業と合わせ2本の柱ができる。この寮で生活し、巣立った留学生は、香港、マレーシア、台湾、中国、韓国、インドネシアなど国籍もさまざまで総勢百名を超えていたが、寮の老朽化により平成16年3月で終焉となった。

第三代理事長 小野 憲(マンパワーグループ代表)

バブル崩壊によって吉田家も傾き、人材開発事業を展開していたマンパワーグループの代表・小野憲が平成11年に財団理事長となり、従来の事業を行ってきたが、小野も高齢となり引退した。

第四代理事長 青山 馥(KRHグループオーナー)

平成15年岐阜県羽島市のKRHグループオーナー 青山 馥が第四代の理事長に就任し、新たに留学生奨学事業、教育支援事業、内外スポーツ振興事業、芸術文化交流事業、発展途上国への支援事業など初期の目標達成のために意欲的に各種事業を展開している。

なお、事業資金は理事長青山 馥、副理事長青山るみ夫妻が寄付行為により10億円を調達し、充当いたします。




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