上田家から財団を引き継ぐことになった吉田清重は、鹿児島藩士の家柄で、貴族院議員として活躍した吉田清風の子である。また、幕末に英国に留学し、後に大蔵小丞、大蔵小輔、駐米公使などを歴任した吉田清成を祖父に持つ。
清重は吉田興業社長として、イタリー亭(銀座、六本木)、シャドネーフランス亭(六本木)、ローズガーデン(浜松町)などを経営し、財団を財政的に支援してきた。しかし主だった事業がなく、文部省から「休眠財団」の指摘を受け、認定取り消しの危機に陥る。
そこで清重は、父清風のときから親交のあった植松基次と出会い、事業運営について相談した結果、すでに基次が行っていた芸術文化事業を財団の事業として行っていくこととし、事業を再会する。
その後、外国人留学生の寮を真鍋陽祐から借り受け、留学生支援事業も行い、上記の事業と合わせ2本の柱ができる。この寮で生活し、巣立った留学生は、香港、マレーシア、台湾、中国、韓国、インドネシアなど国籍もさまざまで総勢百名を超えていたが、寮の老朽化により平成16年3月で終焉となった。